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日本映画と北米マーケット
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| 飯干真奈弥 |
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韓国映画の輸出が好調を維持している。韓国の映画振興委員会が海外セールス会社の実績をまとめて発表したものによれば、昨年の韓国映画の輸出実績は2002年に比べて2倍以上も増えたとのこと。世界56カ国に164本が販売され、輸出金額は3097万9000ドル(約36億円)にのぼった。さらに、同委員会によると今年の上半期だけですでに世界39カ国に計111本の韓国映画が輸出されているという。上半期の契約金額は合わせて3252万150ドルで、すでに昨年の年間総輸出額3097万9000ドルをも超えている。金大中大統領が21世紀国家基幹産業として文化産業を育成するとの『文化大統領』宣言を行ったのは1998年のことだが、その前年の1997年から2001年までの4年間に映画の輸出額はなんと22倍にまで増加している。驚異的な成長率だ。
また、輸出実績を圏域別に見ると、日本を中心としたアジア地域の比重はまだまだ大きいものの、注目すべきは北米地域への輸出割合が大きく増えていることだ。今年上半期のアジアのシェアは70.2%から8.8%下落した半面、北米シェアは3倍も増えたという。これは、世界じゅうの映画マーケットからのストーリーハンティング(つまりネタ探し)に余念がないハリウッドが、近年とくに韓国映画のリメイク版権の購買に関心を示し始めたことが大きく関与していると言われている。 |
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一方、日本映画の輸出状況はどうだろう。総務省発表の資料によれば、2001年の映画輸出額は108億円で、韓国の12億円(2001年)と比べるとまだ差は歴然としているが、すでに述べたようにその差は韓国の追い上げによって急速に縮まっている。また、米国の150億ドル(約1.7兆円)と比べると100分の1以下、英国の6.5億ポンド(約1240億円)と比べても10分の1以下でしかない。1999年のいわゆる“ポケモンショック”以来、「千と千尋の神隠し」やその他の日本製アニメの快進撃、映画「リング」や「呪怨」のリメイク権売買などで北米でも話題に上る機会が増えた現在でも、日本映画の輸出は輸入額910億円に対して802億円もの赤字状態が続いている。
こうした状況が改善されない理由の一つとして、これまで日本と日本映画の「文化的戦略」の欠如が散々指摘されてきたが、昨年は日本の武士道精神をトム・クルーズ主演で描き話題となった『ラスト・サムライ』や、ソフィア・コッポラが東京や京都の情緒を美しく映し撮った『ロスト・イン・トランスレーション』、そして日本映画やアニメの影響を多大に受けたタランティーノ監督の『キルビル』など、新旧の時代にわたって「日本」というものをフィーチャーしたハリウッド映画が公開され話題に事欠かない一年だった。
このことは一見すると日本の文化がアメリカという世界最大の映画消費マーケットにおいて大きく注目されている証拠のように捉えられるかもしれないが、私は少し異なる印象を持っている。ハリウッドは実にしたたかに、日本の異国文化をストーリーのスパイスとして散りばめ、北米のみならず世界中で外貨を稼ぐことのできる映画に仕立て上げる名料理人でもあることを忘れてはならない。あの「マトリックス」が日本の漫画から多大な影響を受け、コンセプトの多くを引用していることなど、一部の熱心なファン以外は知りもしないだろう。
今年11月にも、ジェニファー・ロペスとリチャード・ギア主演でリメイクされた「Shall
we dance?」(オリジナルは周防正行監督)の公開が控えているが、日本や韓国などアジア映画の動向にもつぶさに目を向けながら、優れたストーリーのリメイク権を買い集めてはハリウッド式に仕立て直して世界中でヒットさせるというしたたかさには、莫大な資金力と人材力、技術力が結集した確固たる産業基盤を長い時間をかけて熟成してきたハリウッドの「自信」さえ感じられる。 |
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Trade Follows the Films
貿易は映画に続く |
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今後、日本が日本映画を介してとるべき「文化的戦略」とはいかなるものかを考えるとき、アメリカ政府が20世紀初頭から意識的に重視してきた知的財産、文化輸出としての「映画」をどのように支援してきたかは非常に参考になる。現在、日米におけるコンテンツ産業の対GDP比は、日本が2%にすぎないのに対し、アメリカは5%と日本の倍以上。アメリカでは、映画をはじめとする著作権産業が化学産業、自動車産業、航空産業を抜いて最大の輸出産業となっている。
第一次世界大戦時、アメリカでは民主主義のための参戦であることを国内外にアピールするために映画が利用されたが、それを契機に、戦後『Trade Follows the Films』というスローガンのもと、ハリウッド映画に米国製品をふんだんに取り入れて輸出することによって産業振興にも役立てるという戦略を打ち出す。こうした手法は「プロダクト・プレースメント」として現在も多くの映画で用いられている。
1917年大統領により設立された広報委員会(クリール委員会)では「世界のアメリカ化」を目標に掲げ、映画輸出の促進と「良きアメリカ」を描いた映画の制作を推奨した。こうした国際展開の動きが活発化するなか、当然生じてくる米国映画流入への警戒感や摩擦の高まりに対応すべく、映画会社・海外セールス会社を政府が後押しするかたちでの協調路線が確立され、海外でのマーケティング費用を国が負担するなどの援助が行われた。さらに、1922年には、Motion
Picture Producers and Distributors of America(MPPDA)を映画産業の業界団体として設立し、初代会長には共和党全国委員会委員長で郵政大臣のウィル・ヘイズが就任している。
そして1940年代以降になると、アメリカ政府はいわゆるパラマウント裁定(1949年)によって映画産業における製作と興行の分離を実行し、映画産業における自由競争を促進する。また、地上波テレビ産業の台頭による映画産業のダメージを抑えるため、フィンシン・ルール(1970年)を制定し、3大ネットワークの番組所有・販売及び娯楽番組の制作を規制することにより、ハリウッドの制作機能の再活性化に寄与した。そして国際的なコンテンツ市場がさらなる拡大を見せる現在も、映画のみならず、エンタテイメント産業全体がつねに政府と足並みをそろえ、コンテンツの国際展開をサポートする組織や法の整備も進んでいる。そこにあるのは常に、アメリカの経済成長を強く意識した自発的な国際展開策であり、10年先や20年先ではなく100年先までのアメリカを支える最も有望な産業がエンタテイメント・コンテンツであると見極めた彼らの先見の明には脱帽するしかない。 |
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| 日本映画と北米マーケット |
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韓国映画の輸出先のうち、昨年に比べてシェアが3倍に増えたという北米マーケットだが、日本と同じく伝統的に人気や輸出額が高かったアジア地域での根深い海賊版問題を考えると、韓国が北米への輸出に力を入れ始めたのはさらなる国際展開をはかるうえでは必然的な流れといえるのかもしれない。
韓国では、1973年に設立された「映画振興公社」が韓国の映画産業振興を行ってきたが、金大中大統領の『文化大統領』宣言後、1999年の機構改革によって民間主導の「映画振興委員会(KOFIC/Korean Film Commission)」に改組され、海外で韓国映画紹介イベントを開催するなどの国際展開振興施策がますます充実してきている。韓国政府が、人材育成やファイナンス面での国内振興事業で映画制作そのものを多額の国家予算をかけて後押ししているのはよく知られているが、それと同時に国際マーケティング支援や海外ネットワーク支援を中心とする海外振興事業にも相当に力を入れている。
国際マーケティング支援というのも、日本でも行っている映画祭出品の支援だけでなく、海外での韓国映画週間の開催や、合作及び共同投資協調、そして海外市場開拓の為のマーケティング支援、海外広報誌の発刊、韓国文化広報支援金の運営、海外広報プログラムの配給など、非常に具体的な支援策が考えられており、「韓国文化広報」の手段として映画を最大活用しようとしている狙いは明らかだ。
こうした韓国での取り組みは、かつてアメリカ政府が各映画会社および海外セールス会社を支援して海外マーケティングを行い、「アメリカ文化広報」に力を入れたのを手本としていることは明らかだろう。といっても、韓国映画の輸出先の大半は依然として日本やアジア地域であるため、アメリカに住んでいても特に韓国映画が最近多く上映されているという印象はまったくないのだが、実際に数字に表れてきている以上、今後、うまくいけば目に見えて北米マーケットに進出してくるのも時間の問題かもしれない。
一方、日本映画は北米マーケットでどのようなポジションで、どのように受け入れられているのか。身近なところで感じるのは、日本映画の場合、その他のアジア映画と圧倒的に違うのは「クロサワ」「オズ」というビッグネームが今でもこちらの映画ファンの頭にしっかり刻み込まれているということだ。映画史のテキストなどを見てもそうだが、クロサワ世代の日本映画から影響を受けている監督が現在でも世界中にいることから、映画史の重要な一時期として日本映画の黄金期はかなりページを割いて解説されていることが多い。この時代の日本映画が世界で賞賛を浴びることになった背景には、政府と大手映画会社との協力関係において映画輸出に一時的に力を入れていたことが大きい。その後、映画産業が傾いてきた頃に、現在もある日本映画輸出協会が大映をはじめとする大手5社のきっかけで組織され、多くの税金が投入されたが、使途不明金なども多く映画輸出そのものに関しては失敗に終わっている。
そして今、スタジオ時代の繁栄が終わってしまった日本映画は、アートハウス系単館映画館での個人作家の作品上映、そして、いわゆる「ジャンル物」と呼ばれるアメリカにはないタイプのホラー映画、暴力映画などのビデオやDVDを中心に北米で断続的に受容されている状況だ。とくに、こちらで日本映画といえば「ちょっと毛色の変わった映画」として一部の映画ファンに面白がられていることはあるが、非常にマニアックな世界である。サンフランシスコを拠点に英語版少年ジャンプを発行しているVIZ LLC(注1)の日本映画配給部門VIZ FILMSと一緒に、1990年代後半から三谷幸喜監督の「ラヂオの時間("Welcome Back, Mr. McDonald")」や、林海象監督、永瀬正敏主演の「我が人生最悪の時("The Most Terrible Time in My Life")」、「リング」の中田秀夫監督の「Chaos」、三池崇史監督の「DEAD OR ALIVE」など11本の日本映画タイトルを北米マーケットに輸入・配給してきた、タイドポイントピクチャーズの伊地知徹生氏(注2)によれば、こうした一部の日本映画ファンは日本のアニメや漫画、音楽などを含めた日本のポップカルチャーの「キッチュな物珍しさ」への興味の一環として映画を受容しているという。日本から断続的に発信されてくるサブカルチャー的な文化要素をかき集めるかたちでしか現在の日本文化は伝えられていない。「それでは、サブカルチャー以外に今の日本には何があるというのか?」と問われたとき、多くの日本人はなんと答えるだろうか。それが今の日本の現実だと答えるのだろうか。 |
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| タイドポイントとVIZ FILMSが北米リリースした邦画 |
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ラヂオの時間
("Welcome Back, Mr. McDonald") |
「DEAD OR ALIVE」
三池崇史ファンに受けて1万本以上のセールスを記録。 |
「Chaos」
「リング」の中田秀夫ファン人気で
こちらも一万本出荷。 |
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| また伊地知氏によると、最近ではシアトルを拠点としたある小規模な配給会社が、日本でも聞いたことがないような無名の血みどろの暴力映画だけを探し出し、北米マーケットへ輸入するレーベルを立ち上げたとのこと。性や暴力が売れるのはどこの世界でも同じことだが、あまり気分のいい話ではない。性や暴力だけではない日本映画の配給に尽力してきた伊地知氏はこうした状況を憂い、なんとかもっと日本のポジティブな面を伝えられる映画を北米マーケットに輸入していけないものかと考えている。とはいえ、もともとシェアの小さい北米でのマーケットを一企業の努力だけで広げていくのは至難の業だ。とりたてて日本映画の海外展開支援には力を入れてこなかった政府と日本映画界との戦略不足が現在の状況を引き起こしたといっても過言ではない。 |
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| 100年先の日本に向けて |
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日本では、文化庁、関係団体等を中心に、主に文化振興の観点から映画等のコンテンツ振興施策が行われているものの、アメリカやヨーロッパ、韓国などと比べてもコンテンツの国際展開を戦略的に進めるための施策が不充分であることはこれまでも指摘されてきた。とくに、国際展開を戦略的に進めるためにもっとも重要と思われる海賊版対策や海外展開支援なども、日中韓、日台韓などで意見交換が始まっているらしいが、具体的な規制や契約ルール、海外マーケットを見据えたマーケティング支援などはほとんど手つかずの状態だ。これは、先進国のなかでもとくに危機的なほどの遅れを見せている。
海外展開については、日本映画輸出協会やJETROなどを通じた国際映画祭・見本市等への出品・出展支援などが文化庁予算で行われているが、文化・芸術交流の側面だけからではなく、海外マーケットの開拓という面からも、相手国の市場特性や文化的差異、法規制、事業展開事例などの情報を調査し、国益増進の一環として政府レベルでの市場開拓の支援をする必要があるのではないだろうか。映画に関して言えば、アメリカと比べると戦略の面では実に一世紀近くも遅れていることをしっかり自覚しなければならない。文化・芸術の伝統を継承するだけでなく、新たな文化価値を創造していくためにはまず、人材・資金・技術等の資源を惹きつける競争力のあるエンターテインメント・コンテンツ産業を育てなければならない。今こそ、100年先の日本のビジョンを描く時ではないだろうか。 |
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| (注1)VIZ LLC(ビズ・エル・エル・シー)。小学館・集英社合資の出版社で、雑誌SHONEN JUMPをはじめとする日本の人気マンガ、「ポケモン」などの人気アニメを米国内で出版・配給している。(本社サンフランシスコ) |
| (注2)伊地知徹生(いじち・てつき)氏:早大大演劇科在籍当時の70年代後半から80年代前半にかけて自主映画制作・上映活動に携わり、80年代後半クズイエンタープライズ、故キース・ヘリングのポップショップに参加。退社後、映画の企画、音楽イベントのプロデュースを経て、96年にカリフォルニア州に移り、タイドポイント・ピクチャーズを設立。現在、日本映画の北米輸入/配給業とオリジナル作品のリメイク権利の営業などに情熱を傾けている。 |
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