飯干真奈弥のアメリカレポート(17) 〜おわりに〜
 
飯干真奈弥  
 
 2002年の夏に渡米してから、あっという間に丸3年の月日が過ぎた。昨年末に大学も無事に卒業し、現在のところ、まだしばらくはサンフランシスコの街で映画にかかわる仕事や執筆活動を中心にやっていこうというところで、3年間お世話になったこの連載ともいよいよお別れのときが来てしまった。これまで、私の拙い文章に目を通して下さり、ときには激励のメールなどをお送りくださった方々に深く感謝を申し上げたい。また、記事で取り上げてほしいテーマなどのリクエストをお送り下さった方々にも、紙面上の都合でご希望に添えなかったことをこの場をお借りしてお詫びしたい。
 さて、長年の願いかなって映画制作というものを学びにアメリカへ来て、映画作りの現場というものが想像と違っていかに土臭く、まるで工事現場に日雇いの仕事をしに来てしまったかのように体力勝負の世界であるかを体験することとなった。映画の規模がどれだけ大きくなろうとも、あるいはまた、撮影機器、特殊効果の技術がどれだけ発展向上しようとも、これだけは絶対に変わらないのだろうという気がする。ビジョンを具現化するということは、非常に骨の折れることだ。これはエンターテイメントの世界でも、ビジネスや政治の世界でも同じことだろう。やるか、やらないか。多分最後はその決断だけなのだ。
インディペンデント長編映画の制作現場でクルーのみんなと
 さてこの3年のあいだに、日本もアメリカも映像コンテンツの世界はますますカオス的時代に入ったといえる。というより、映像というジャンル自体がこの「コンテンツ」という漠然とした言葉に飲み込まれてしまうほど、エンターテイメント業界のあらゆるジャンル、媒体の垣根、境界線のマージが急速に進み、なにか掴みどころのない巨大な「コンテンツ」という名の怪物の手や足をみんなで方々から引っ張り合っているような様相になっている。かつて「メディアミックス」という言葉が盛んに使われていた頃には斬新だったクロスマーケティング手法も今では業界の常識となり、コミックだろうが映像だろうがフィギュアだろうが、切り売りできるものはすべて売るという井戸の水の争奪戦のような状況になっているのだ。
サンディエゴで開催されたComic-Con2005の模様。スパイダーマンやBATMAN、ポケモン、シンプソンズなどのコミック・アニメのキャラクターたちと一緒に、スターウォーズやターミネーター、エイリアン、「13日の金曜日」のジェイソンなど様々なジャンルからのキャラクターたちもお目見えした。
 先日サンディエゴで開催された北米最大のコミック展覧会「Comic-Con 2005」でも、何も知らずに会場入りすれば一体なんの展覧会だったのか判らなくなるほど、ありとあらゆるジャンルの「コンテンツ」が視界の隅々にまで溢れかえっていた。この連載でもお伝えしてきた近年のマーヴェル映画の快進撃や日本のアニメ、マンガの隆盛によってか、かつてはコレクターたちの聖地であった「コミックコンベンション」はもはや、キャラクターライセンシングショーとほとんど変わらない一大エンタテイメントビジネスショーとなってしまっている。コミックの出版社や小売店、アニメやゲームのプロダクションに混じって多かったのは、スターウォーズや、ドリームワークスなどハリウッドの大作映画に関連したグッズを大々的にプロモーションするブース。こうした出展はほとんどコミコン本来の趣旨と関係なく、「コミコンに来ている敏感な客たち」をどれだけ刈り込めるかという商魂逞しいマーケティング合戦を目的にきているのであり、つまりは「コミコン」とは名ばかりの「なんでもあり」のカオス的世界がそこに繰り広げられているのだ。
 これだけさまざまな媒体での最大限利用(再利用?)に耐えうるためには、「コンテンツ」のほうにもよほどの体力がなければならないだろう。キャラクターはもちろんのこと、その世界観そのものがひとつのマーケットを作り出してしまうようなプロパティ、たとえばスターウォーズやスパイダーマンなどはいい例である。しかしまた一方で、こうしたキャラクター頼みの商売がいつまで飽きられずに続くのかという懸念も常にある。マーケットを作り出す大人たちの思惑が、ターゲットとなる子供やキャラクター好きの大人たちによって大きく裏切られることも多いなかで、いかにして水脈を掘り当てるかという競争だけが加熱しているようにも見える。また、キャラクタービジネスのマーケットに映画での成功が大きく影響することはすでに周知のとおりだが、今年前半のアメリカの映画興行は例年にない不振を見せ、アジア映画のリメイクや「キングコング」「世界戦争」のような古い映画のリメイクが増えているという現状を見ると、現在のハリウッド映画の文化の乏しさはこれまで指摘されてきた以上に根の深い問題ではないかと思えてくるほどだ。
 ストーリーというものはすでに語り尽くされ、いかに真新しい着想でストーリーを語り直すかということでしか観客を引きつけることはできない。真新しい着想とは、つまり時代性ということになるが、この点においてアメリカという国はいま「現在」を見失いかけているのではないかという気がする。つまり、かつての強く正しかったアメリカという国の幻想、無敵のヒーローと言う虚像が、「9.11」以降一気に崩れ出し、みずからの「現在」という時代性に即したストーリーを語れない思考停止状態に陥っているのではないだろうか。これは日本にも当てはまることではあるが、アメリカのこの思考停止はもっと根が深く、220年余りという短い歴史のあいだに急成長した国の一元的な即物的価値観、世界観への冷たい解答とも言うべき現在の状況は、この国の始まりからすでに引き続いてきた問題が表面化しただけと言えなくもない。アメリカがアメリカだけを見ている限り、この問題は解決されないだろう。彼らが今後どのような「現在」のストーリーを語るのか、語れるようになるのかは、非常に興味深く、また少し恐ろしいような気もする。
 では、日本はどうだろう。日本は映像を通じて、われわれの1500年余りの文化や歴史の延長線上にある「現在」のストーリーを語っていけるだろうか。かつてフランスのゴダールは、「日本には映画作家は存在するが、日本映画は存在しない」と言い放ったが、敗戦後自分たちの声を世界に届けることを諦めてしまった時代から、日本の「現在」はようやく抜け出そうと必死でもがいているように見える。きっかけはマンガ、アニメというサブカルチャーであったにしろ、幸いにして湧き続けてきた貴重な井戸の水がいつまでも尽きないとは決して限らない。世界のマーケットへ果敢な挑戦をするのももちろん大事だが、目先の争奪戦に一喜一憂するよりも、土臭く何より地味な創作の現場から生み出されるものを守ってゆく誠実さを忘れてはならないだろう。土が疲弊してしまわぬよう、本当に優れたものを、ゆっくり時間をかけて育ててゆくことこそ、われわれ日本人が日本人としての「声」を保っていく最良の方法ではないだろうか。
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 最後に、3年間連載を持たせて下さったDCAjの関係者の方々、担当者の廣田さんに深くお礼を申し上げます。また近々、別の機会にお目にかかれますことを願って。
 

海外レポート終了にあたって
 昨今、アメリカ、フランス、韓国などをはじめとして色々な場で様々な海外展開事例を聞けるようになってきたところであるが、このような状況に先がけてサンフランシスコの飯干さんをはじめ、パリの西山氏、CMUの伊是名さんには、それぞれの立場でレポートを書いていただき、読者への有益な情報提供をすることができた。この場を借りて感謝申し上げたい。コンテンツ産業界の色々な方から反響を得て、好評であったことをご紹介しておく。なお、過去のレポートは本サイトにて参照可能であり、問い合わせについては各執筆者宛に直接お願いします。
企画調査部 廣田 新